2020年6月号

今月の社会学 自民党の暴政による憲法破壊 2

積極的平和
9 条を生かすより ——引用—— 北欧で発達した平和学では、単に戦争がない状態を平和とは考えない。戦争がなくても戦争につながる火種は社会に多い。貧困や飢餓、人種や男女の差別、賃金の格差、いじめ、難民や領土問題もある。
こうした構造的な暴力をなくし、だれもが安心して安全に暮らせる社会こそ本当の平和だ。黙っていても平和にはならない。平和は創るものだ。積極的な努力によって創る平和を平和学では「積極的平和」と呼ぶ。
平和憲法を持っているだけでなく積極的に活用して世界に平和を広げる国がある。小学生が国を相手に憲法違反の訴訟を起こして勝ってしまう国がある。困っている難民を 100 万人も受け入れている国がある。まさか、と思うような政策を現に実現している国が中米のコスタリカだ。
コスタリカに感心するのは平和憲法を活用して世界に平和を広めようとするだけではない。国内にも憲法を活用し、国民のだれもが安心して安全に暮らせる社会を創ろうとして実際に成果を挙げたことだ。
コスタリカは教育費が無料だ。医療費も無料だ。経済大国の日本ができないことを実現した。しかも「世界一幸せな国」と評価される。「私は幸せです」と心から思っている人の割合が世界で最も高い国、それがコスタリカだ。
小さくて貧しい開発途上国なのに、自由と民主主義の度合いはアメリカの従属国日本と比べ物にならない、はるかに高い国だ。
平和国家を基軸に教育国家、環境国家として世界に尊敬される国づくりをしている。

平和憲法を知っている国民
著者(伊藤千尋)がコスタリカの国民は憲法をどの程度知っているか、街中で聞いてみた。目の前の八百屋の人に「あなたの国に平和憲法があるのを知っていますか」彼は「もちろん」と言う。
「侵略されたら、どうするのですか」と聞くと、彼は胸を張って答えた。「うちの国は周りの 3 つの国(ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラ)の戦争を終わらせるなど、世界の平和のために貢献してきた。こういう国を攻める国があるとは考えられない」ときっぱりと語った。
店を出ると女子高生がいたので、彼女に同じ質問をした。「あなたの国に平和憲法があるのを知っていますか」彼女は「もちろん知ってます」と答えた。「侵略されたらどうするのか。あなたは殺されるかもしれないよ」と聞いた。
彼女は、これまでコスタリカが国連などで行ってきた世界の平和のための政策や行動を30年前にさかのぼって次々に具体的に挙げた。そのうえで「この国を攻めるような国があれば、世界が放っておかない」と述べた。さらに「私はコスタリカの歴代の政府が行ってきた世界の平和に向けての努力を、一人の国民としてとても評価しています。私は自分がコスタリカ人であることを誇りに思っています」と毅然として語った。
一般の市民が国政についてしっかりした知識と自分の明確な意見を持っている。たまたま道で出会った女子高生が外国の記者の突然の質問に堂々とデータを挙げて政治を語る。
日本では事前に連絡をしておいた有名大学の先生でもこうはいかないだろう。
日本の街でいきなり外国人の記者に質問されて、国の平和政策をスラスラと語れるだろうか。日本の政治を誇りに思っていると言えるだろうか。いや、それ以前に国民が誇れるような政策を日本の政府はやっていないではないか。日本国民は、誇りたくても誇れない。
コスタリカに軍隊は無い。国境警備隊は自動小銃を所持して 2500 人、沿岸警備隊が 400 人、航空監視隊が 400 人、警察が 6500 人である。
警察官に「侵略されたらどうするか」と質問をした。
警察官は「軍隊を持ってしまうと、どうしても武力を使いたがる。それを避けるためにも軍隊を持たないことは素晴らしいことだ。もし侵略されたらまず我々警察が対応するが、政治家が平和的に解決してくれると信じている」と答えた。
別の警察官に同じ質問をした。「我が国は軍隊がないので、国連を中心とした国際機関にゆだねます。他の国との紛争は対話で解決するようにしている」「コスタリカは、国民は幸せを感じています。この国は幸せに暮らせる国だと思う」と答えた。
日本の警察や公務員と違って、自分で考えて発言する。
国連で核兵器禁止条約を 1997 年、2007 年、2017 年と 3 度にわたって提案し、世界の国々を動かして賛同国を増やした。
コスタリカは憲法の条文通り、本当に軍隊をなくした。それも国民の総意で軍隊を棄ててしまった。しかも平和憲法を持っているだけでなく活用して、世界に広めている。
1986 年に 42 歳のオスカル・アリアス氏がコスタリカの大統領に当選した。就任直後から「ラテンアメリカの問題はラテンアメリカ自身が解決する」と主張して、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラの 3 つの国の政府とゲリラに対話を勧めたのだ。
すぐに成果はでなかった。1986 年の国連総会でアリアス大統領は演説した。「私は武器を持たない国から来ました。私たちの国の子どもたちは戦車を見たことがありません。軍艦どころか銃さえ見たことがありません。私は小国ながら 100 年にわたる民主主義の歴史を誇る国から来ました。私たちの国では男の子も女の子も、弾圧というものを知りません。私たちの国は自由の国です」と語りかけた。
あくまで対話による交渉を続けた結果、ついにグアテマラ南東部にある小さな町・エスキプラスで関係した 5 ヵ国の大統領による和平合意の調印を取付、3 つの国の内戦が終わる道筋をつけた。その功績で彼は翌 1987 年のノーベル平和賞を受賞した。
ノーベル賞受賞の記念演説をした際、アリアス大統領はこう語った。
「歴史は夢が現実に変わることを求めている。歴史はおのずから自由への道を目指している。歴史はおのずから人間の心が正義だと判断している。歴史の流れに逆行する時、搾取と貧困と圧政の道に移る。我々は非武装国であり、飢えのない国民であり続けるよう闘っている。私たちはラテンアメリカにおける平和のシンボルであり、発展のシンボルでもありたい。平和が発展のための条件であり成果であることを示したい」
自民党議員や官僚たちに語らせたい言葉ではないか。
アリアス大統領はこう締めくくった。「2 度とヒロシマがあってはならないし、2 度とベトナムもあってはならない。武器はそれのみで火を吹かない。希望を失った者が、武器の火を吹かせる。私たちは平和のために迷わず闘い、希望のない世界や狂信者の脅しという挑戦を、恐れずに受けなくてはならない。私たちは夢を捨てない、知恵を恐れない、自由から逃げないことを誓う。私たちは人生を捨てない、魂に背を向けない」平和憲法を持っている国は、自分の国だけが平和で満足してはいけない。周囲を、世界を平和にするのだという決意と実行である。
同じ平和憲法を持ちながら、日本は世界に何をしてきただろうか。日本の政府がやったのは、戦争中に日本軍が南京虐殺などするはずがない、従軍慰安婦などありえないから謝る必要もないなど、アジアの人々の神経を逆なですることばかりだった。

ノーベル賞を受賞すると多額の賞金が出る。アリアス氏は自分の財産にするのではなく、それを資金として 1988 年にアリアス平和財団を立ち上げた。
「財団の目的は中米地域に平和をもたらすことです。平和は日々、創っていくもので、努力を放棄すれば平和はすぐに失われてしまう」と財団の事務局長の女性弁護士ララさんは述べた。
朝日新聞主催の国際会議「希望の未来」に大統領を退いたアリアス氏を招いた。
カンボジアの内戦で国際貢献の名目で自衛隊が派遣されたことについて、どう思うかの質問でアリアス氏は間髪入れずに答えた。「国際貢献など美名を使っても、軍服を着た軍人が行けば必ず現地の人々から嫌われる。わざわざ軍人を派遣しなくても、日本は別の貢献の仕方があるではないですか」と言う。そして「これまでカンボジアは戦争をしていたから病人、けが人ばかりだ。まずは医師を派遣すればいい。白衣の医者の方が軍服を着た軍人よりもはるかに歓迎されます」と語る。
さらに続けて言った。「次に必要なのは産業の復興です。カンボジアの産業は農業で、日本と同じ水田耕作ではありませんか。日本の反あたり収量は世界一。日本の農民をカンボジアに派遣して、日本の優れた農業技術をカンボジアの人々に教えればいい。そうすればカンボジアのすべての田んぼに稲がたわわに実り、誰もが食べられるようになる。飯が食べられたら誰も戦争なんてしませんよ」「その後に問われるのが将来です。将来を決めるのは教育です。日本は世界に冠たる教育国家で、昔から寺小屋もあった。教師を現地に派遣して、日本の優秀な教育をカンボジアに輸出すればいい。そうすればカンボジアの将来ができます」素晴らしい名案に驚きですね。アリアス氏のような人がいるから国は良くなる。
日本の野党も国民の多くが賛同するような案を示して、それをマスコミがきちんと伝えたら国民は支持し政権を獲得できると思う。
アリアス氏は名言を吐いた。
「私の国は、1948 年に軍を廃止してから 50 年近く軍隊を持っていません。私たちにとって最も良い防衛手段は、防衛手段を持たないことです」
アリアス平和財団は女性の権利の向上を進め、隣のニカラグアの女性の識字教育に力を注いでいる。平和だけでなく、教育も輸出している。教育や民主主義こそ平和の基礎だという基本的な考えがある。
学校を訪れ教師に教育をどう考えるのか聞いた。教師は「教育とは、子どもが自立してどんな大人になりたいか、どんな市民になりたいかを自分たちで考えることの手伝いです」という。
対話を通じて人生を愛すること、自分に価値を見いだすことを教える。一人一人が自分自身を平和にしてこそ社会の平和も保てる。「個人の平和」こそ平和の出発点だと考えられている。教科書をみると、その充実ぶりに驚く。民主主義とは何かを言葉で示すだけではない。たとえば生徒が大きくなって勤めた職場で解雇されたと想定して、どうすればいいのか、憲法はどう国民を守っているのか、憲法や法律のどの条項をどう主張して解雇撤回を会社に迫るのか、などと実に実践的な教育を授業でやっている。それも先生が一方的に教えるのでなく、生徒が自分で調べてそれを発表するのだ。こうして法律は子どもの身につく。
アリアス大統領の対話による紛争解決とは、何も特別に彼が考え出したことではない。コスタリカの学校教育で日々、教えていることだ。彼は幼い時から学校で習ったことを、そのまま政治家として実践しただけだ。
なぜコスタリカが軍隊なしでやっていけるのか。国際法律大学のカルロス・バルガス教授に聞いた。「答えは簡単だ。民主主義をうまく実践してきたからだ。コスタリカでは誰もが教育を受け、豊になることができる。人権が保障され、子ども、女性、お年寄りが社会に参加でき、社会保障が整っている状態が私たちの考える民主主義だ」と語る。さらに「その民主主義を維持するのは大変だった。様々な危機を乗り越えて理想を実現してきた。それを可能にしたのは常に対話の道を探ったからだ。対話で紛争を解決し、人権を重視する。差異を認めながら対話を続ける。対話こそキーポイントだ」
女子高生がコスタリカが世界平和のための政策や行動に尽くしてきた過去を挙げ「私はコスタリカ国民であることを誇りに思っています」と胸を張った。子どもでさえ自分の国の政策を誇りに思う国が、ここにある。それは理想を追い、理想を実現する努力をしてきた成果だ。コスタリカの教育重視は 1871 年の憲法で早くも義務教育と教育の無償化をうたった。さらに脱宗教と死刑廃止を宣言した。世界の歴史を先取りするような政策を、この国はいち早く行ってきた。
憲法で軍隊を廃止した立役者で「国父」と呼ばれる故ホセ・フィゲレス大統領夫人のカレンさんだ。彼女は語った。「平和とは単に戦争のない状態を指すのではありません。行動を伴ってこそ平和になるのです。私たちはバラス(弾丸)でなくボトス(投票)を選びました。平和を願うならば闘わなければなりません。単に『平和主義者』であってはならない。非暴力での闘いをすべきです。武器を持たずに平和のために闘うのです。それは勇気を必要とする闘いです。
平和を創るのは容易ではありません。しかし、やりましょう。実現しましょう。夢を!」

自民党壊憲案
1 条で天皇を元首と定め、日の丸、君が代を強制する。国民主権をないがしろにし、国民の権利を抑圧し明治時代の統制国家に戻そうとする、民主主義を否定するファシズムそのものである。
憲法とは権力者を縛るものである。権力者が憲法改正を言うのは言語道断である。憲法 99 条憲法尊重擁護の義務:天皇または摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う。
と明記されている。それを擁護せずに、壊して全く別物にしようとしている。こんなとんでもない発想を持った連中が政権を握っている。
想田和弘氏(映画作家)が考える日本の今 低温ヤケドのようにじわじわと進む全体主義 日本は今、非常によくない状況に進んでいます。低温ヤケドのようにじわじわと全体主義が進んでいる。僕に言わせれば「熱狂なきファシズム」。なのにメディアがそれを本気で止めようとしないことが問題です。特に大きなメディアが腰抜けすぎる。小さなメディアには抵抗しているところもありますが、新聞もテレビも、一番の歯止めとして頑張らなければならないところがその仕事をしていない。
さらに深刻なのは、これでいいんだと思っている人が実は多いのではないか、という点です。安倍政権があれだけ非民主的な政治をしても政権を維持しているのをみると、「民主主義、表現の自由、権力の監視など必要ない」というコンセンサスが、実はメディア内でも一般人の間でも形成されているのでは?という気がしてなりません。それが根本の問題です。

米軍基地を撤去したフィリピン
セブのマクタン島に盾と刀を持った大男の像がある。これはフィリピンの英雄ラプラプ王の像である。
「1521 年 4 月 27 日、ラプラプと彼の部下はこの地で、スペインの侵略者を撃退し、そのリーダーであるフェルディナンド・マゼランを殺した。かくて、ラプラプはヨーロッパの侵略を追い払った最初のフィリピン人となった」。
マゼラン上陸以前から、この地で生活していた人々にとって、この「発見」はスペイン侵略の始まりを意味する。
『フィリピン民衆の歴史』:レナト・コンスタンチーノ著(フィリピン大博士)
「フィリピン人は、彼らの歴史全体を通じて 4 たび『解放』される不幸にあった。最初にスペイン人が来てフィリピン人を『悪魔の虜』から『解放』し、次にアメリカ人が来てスペイン人の抑圧から彼らを『解放』し、次いで日本人がアメリカ帝国主義から彼らを『開放』し、そして再びアメリカ人が日本のファシストから彼らを『解放』した。『解放』のあとで、常に彼らは外国の『恩人』が彼らの国を占領するのを知った」。
「解放」とは、侵略者にとってまことに都合のいい論理である。日本では、今なお、「解放」論を持ち出して、かつての侵略戦争を合理化し、美化するグループがいる。
スペインはフィリピン支配を始めた。遠征隊は 1565 年 2 月にセブ島に到着し、居留地をつくった。
1898 年 4 月、米西戦争が勃発した。スペインに宣戦布告したアメリカは、たちまちのうちにスペイン軍に勝ち、キューバ、プエルトリコなどを占領した。さらにアメリカは太平洋における足場として、ミッドウエーやハワイを相次いで併合した。極東基地としてフィリピンをねらった。
1898 年 5 月 1 日、米艦隊はマニラ湾のスペイン艦隊を打ち破った。アメリカはアギナルドとそのグループを亡命先の香港からフィリピンに運び、対スペイン戦争に利用した。他方、独立を目指したフィリピン民衆はスペイン軍を各地でおいつめ、アギナルドは、ふたたび指導者として迎えられた。
1898 年 12 月 10 日、スペインとアメリカがパリで講和条約を締結した。フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから譲り受けた。
講和条約締結後、アメリカはフィリピン併合の宣言をした。
1901 年、アメリカはフィリピンを「民主主義」の体裁をとるため、軍政から民政へ転換した。自民党と同様のアメリカの言いなりになる傀儡政党をつくらせた。
1906 年に、独立を綱領に掲げる政党の禁止令が解除され、独立をめざす諸勢力が集まってナショナリスタ党が結成された。第1回の選挙でナショナリスタ党は 59 議席を取ったのに対し、アメリカの傀儡党の進歩党は 16 議席だった。この結果をみても、国民が反米・独立を志向した。
日本では明治から長州テロ政権が政府批判するような新聞や言論を弾圧していたため、きちんと物申す政党などはできにくい状況だった。
アメリカがフィリピンを植民地にする理由は二つある。 1,フィリピンを拠点に他国へ干渉するための軍事基地2,アメリカに対する原料供給とアメリカ製品の消費市場抑圧が様々な形で続いた。独立運動も取り締まられたが、フィリピン人のパワーに押されてアメリカは 1935 年に条件付きでフィリピンの独立を認めた。それは 1946 年 7 月 4 日に独立させるという取り決めをした。
第二次大戦が 1941 年 12 月 8 日に勃発した。台湾から発進した日本軍がクラーク基地を爆撃した。制空権を握った日本軍は 12 月 10 日、ルソン島北部に上陸、翌年 1 月 2 日、マニラに入城した。すでに米軍はマニラを放棄し、無防備となっていた。
日本の侵略と占領で、フィリピン人 111 万人余りが殺された。いわゆる「従軍慰安婦」問題を含め、占領下のフィリピン人の苦しみや被害などについては、それだけで、何冊もの本になるテーマである。
日本の侵略から得た重要な教訓は、植民地支配する国の軍隊は、外敵から植民地住民を守らない。フィリピンはアメリカが守らなかった、シンガポールはイギリスが守らなかった。これは東南アジア全体に言えることだ。我々は独立し、自分の足で立たねばならないという教訓を得たとシンガポール国立博物館の館長が言った。
フィリピン国民の想像を絶する苦しみのあと、米軍は 1944 年 10 月、レイテ島に上陸し、翌年 2 月にはマニラに入城した。過酷だった日本による占領は、再上陸してきた米軍の手で終わりを告げた。しかし、フィリピンは 4 度目の「解放」でふたたび、アメリカの植民地になった。
首都に外国軍基地を置かせない
1946 年 10 月、フィリピンはアメリカに 4 つの要求をした
1,首都、マニラに米軍基地を置かない。
2,最も重要な基地の位置は、補助的施設などについての協議が始まる前に確定する。

3,基地外での米軍人の治外法権を認めない。米兵犯罪についてフィリピン側が裁判権をとる。
4,基地で働くアメリカ業者はフィリピンの税制に従って、納税する。
攻撃の的になる米軍基地を首都に置かないという強い主張があり、アメリカ政府に認めさせた。

アメリカのあやつり人形
1950 年代なかば、フィリピンでは民族主義の潮流がたかまりつつあった。議会では、フィリピンが近隣のアジア諸国から、アメリカのあやつり人形ように受け止められていることにいらだち、これまでの比米関係を見直せと主張する声が強まった。インドのネール首相などは、米軍基地を置くフィリピンを完全に独立した国とはみなさないという態度をとっていた。
アメリカの植民地にしがみついている、自民党・官僚などは見習ってもらいたい。
〖事前協議〗米政府外交秘密文書によると 1958 年 12 月 1 日付基地提供国の「同意」を意味しない。「日本側は『協議する』ということばと『同意する』ということばを同じことと見ているようだが、そういう解釈を受け入れてしまったら、日本に対し米軍の使用問題をめぐる拒否権を事実上与えることになる。これはどんな事態のもとでも、米国が同意しえない点である。どのように条約を修正するにせよ、協議するのを認めるという意味は、日本側の見解に対して十分に考慮を払う——そうできる場合には気持ちは分かったという同情的考慮を払う——ことに過ぎず、日本の見解に同調する義務を、はっきりした形であれ暗示的であれ米側は負うものではまったくない」

ピープルパワー
この国の人々は他人まかせでなく、自分たちの行動で政治や社会を変えてきた。v 1986 年の大統領選挙でマルコス独裁政権で冷遇されていた人々や貧しい労働者たちが女性のコラソン・アキノの側についた。マルコスが勝利を宣言したが不正が明らかだった。首都マニラで独裁者の退陣を求める民衆 100 万人が立ち上がった。
2001 年にも腐敗したエストラダ政権を追い落とし、アロヨ政権を誕生させた。
フィリピンでも基地周辺では、レイプ、強盗、殺人が頻発した。米軍基地の存在によって国家主権そのものがおかされている。国家主権を侵害する米軍地位協定の屈辱的な内容はフィリピンでも問題になっていた。
「AMERICA’S BOY」=「アムボイ」という言葉がある。アメリカの言いなりになる政治家、従順な政治家、アメリカに魂を売った政治家という意味がこめられている。
米軍への「思いやり予算」と言う言葉を使ったのは金丸信自民党副総裁で「アメリカあっての日本」などと公言した。フィリピンで「アメリカあってのフィリピン」と言ったら軽蔑される。世界中でそんなことを言うのは自民党しかないだろう。
自民党や官僚は「アメリカ絶対政治」をフィリピンや他国にまで押し付けるので情けない。東南アジア諸国連合(ASEAN)の拡大外相会議は、いつも、日本の外相が、米軍基地の大切さを参加国に“宣伝”する場となってきた。
ちょっと古い資料だが経年劣化していないので使わせてもらいます。米軍基地問題でフィリピンとアメリカ両国が厳しい交渉をしていたとき、当時の中山太郎外相は演説で両政府の新条約への合意を大歓迎し、日本がいかに米軍に「思いやり予算」を出し、米軍を大切にあつかっているかを数字をあげてとくとくと説明した。基地提供の見返りの補償額が少なすぎる、というフィリピンの不満に対し、“そんなことを言うな、日本をみろ”と説教する内容だった。フィリピンでは国論を二分し、これから上院が最終決定しようとしている大問題である。この時期にしゃしゃり出てきて、アメリカの太鼓持ちをする日本政府のアメリカ一辺倒の姿勢の異常さはアジア諸国の外相に呆れられた。

反米気運
60 年代後半から 70 年代にかけて、アメリカがフィリピンの政治・経済・社会を悪くしている原因だという認識が広がった。
議会でもマヌエル・エンヴェルガ議員が東南アジアからの外国軍基地の撤去の意見が出された。そして、米軍基地がフィリピンを守るためにあるというのは神話にすぎないと強調した。在比米軍基地の撤去を要求する声も地域の有力者から公然とでるようになった。
〖参考〗アメリカが海外で行ってきたことは「民主主義」「人権」「自由」をとなえていたが、これは大義明文で最大の目的は米軍基地(例:米本土より日本に米軍を置いた方が安上がり)そしてアメリカ製品の消費市場のためである。
米軍基地はそれぞれの国を守るためではなく、世界支配戦略のためにある。
1991 年 9 月に比米基地協定の期限が終了するまでは基地を認めるがその後はすべての外国軍基地は認めない。憲法そのもので外国軍基地を完全に拒否するという画期的な内容だった。全体会議の冒頭で、法律家のホセ・ノレド委員は言った。
「1946 年 7 月 4 日の独立宣言以来、わが指導者たちは外国の干渉から自由に国の進路を決めることができるはずだった。——中略—— 」「私は、わが国における米軍基地の存在は主権と司法権への侵害だ、と明言する。基地は、わが国と指導者たちをアメリカの政策や利益に従属させる。それは、内政への介入をもたらすがゆえに、国連が確認した自決の法則と矛盾する。基地は、国連が求める軍縮に反する。基地は、われわれの国家の尊厳と名誉を傷つけている」。
「米軍基地の存在は、わが国の指導者たちにとってのおどしであり、悪い影響を与えてきた。言うまでもないことだが、フィリピンの政治指導者がアメリカの公然または秘密の指示を得るためには、米軍基地の存続に同意しなければならない。喜んでアメリカの道具になろうとする指導者だけが、アメリカやアメリカの支配する世界銀行、国際通貨基金の支援を得られるのだ」。
1991 年のピナツボ火山の噴火により、避難する住民の前に基地が立ちふさがった。人々は基地の門を開けてくれと叫んだ。しかし、門を開けなかった。
政府はフィリピンに米軍基地を置く理由を「国民を守るため」と説明してきた。国民を守るどころか見捨ててしまった。フィリピン人のためでなくアメリカのための基地ではないかという声が上がった。2 つ目は、核兵器の問題だ。火砕流が基地に流れ込んだら恐ろしい事態になる。3 つ目は、基地交渉事態への影響だ。爆発の結果、交渉そのものが中断された。
ちょうどそのころフィリピンとアメリカとの基地協定は期限切れの時期だった。世論は一気に基地反対で盛り上がった。
米軍の調査で、クラーク空軍基地は事実上、使用不能になったことが明らかになった。
スービック海軍基地は被害が軽かったためアメリカは基地協定の 10 年延長を望んだ。しかし、フィリピン国会は政府が結んだ安全保障条約を否決した。
もちろん条約賛成派もいて、基地が無くなると終末がくる、失業者、投資、貿易などの問題が起こるという意見もあった。
シンガポールから海軍基地が無くなった時、タイから基地が無くなった時、それぞれの国はきちんと対処して、繁栄している。
1991 年 9 月 16 日にフィリピン上院は米軍基地を撤去させた。
米軍が完全撤退したのは、1992 年 11 月 24 日だった。
スペイン支配(1565)から 427 年ぶりに、アメリカの支配(1898)から 94 年ぶりに外国軍基地はなくなった。
基地があったときは 44,000 人が基地で働いていた。18 年後(2010 年)の現在は製造業、造船や観光業などで 90,000 人が雇用されている。
米国は軍事・治安に関する様々な協定を口実にしてフィリピンの内政に介入してきた、同時に米軍の軍事介入はこれら協定によって正当化されてきた。
軍事基地協定は破棄されたが、フィリピンとアメリカとの間で結ばれた軍事協定はいくつもある。1951 年の相互防衛条約。1999 年の訪問軍協定(VFA),2002 年の相互兵站支援協定。 2014 年に防衛協力強化協定(EDCA)を結んだ。
どこの国も政権政党によって国の政策が影響を受ける。フィリピンでも新自由主義経済に基づいて、競争力確保と開かれた経済の名のもとに、多国籍企業の誘致と投資が最優先されて地元産業や国民が不利益をこうむる。