2023 年1 月号vol .29

独立国になれない日本(敗戦後78年経過)

本土の人間は知らないが沖縄の人はみんな知っていること
皆さん右と下の写真を見てどう思いますか。
ヘリがビルが建ち並ぶ所を低空飛行しています。

低空飛行

低空飛行

街中をヘリが低空飛行することは本来なら、あり得ないことです。しかし、現実には写真を見てわかる様に起きています。ここはどこだと思いますか?日本の首都東京の六本木です。ほとんどの日本人は知らないと思います。六本木にアメリカ軍の基地が有ります。

都内には六本木(赤坂プレスセンター:26,938 ㎡、ニューサンノーセンター:7,243 ㎡)、 横田飛行場:713 万 9452 ㎡、府中通信施設:16,618 ㎡、多摩サービス補助施設:194 万 8,345 ㎡、大和田通信所(清瀬市、新座市):119 万 7,735 ㎡、硫黄島通信所:663 万 668 ㎡合計:1601 万 3,292 ㎡のアメリカ軍基地が有ります。世界中で首都に外国軍基地がある国 は日本だけです。首都に外国軍基地(占領軍)がある国は独立国と言えません。

アメリカ軍基地

それでは、敗戦後 78 年も経過しているのに、なぜ日本は植民地状態なのか原因を追って説明します。

アメリカ軍基地

その時、歴史は長州政府によってねじ曲げられてしまった。上の年表をみて分かるように明治になって近代天皇制になりました。明治以前に天皇はいたが、武家政治だったため、一般市民にとっては領地の殿様は知っていたが、天皇の存在は知らない人が多かった。 長州政府によって曲げられたことは、大化の改新は大化時代の出来事、建武の中興は建武時代の出来事です。俗に「明治維新」と呼ばれている事件が起きたのは慶応 3 年から慶応4 年にかけて起きたことです。従って、「慶応維新」という呼び方が合理的です。と「維新正観」の筆者の蜷川 新氏は天皇権力主義の歴史家等に反省を求めてきました。

日本を滅した長州藩(毛利藩)の特性
長州という藩は珍しい藩で、下級の者が殿様の言うことを聞かなかった。殿様は家臣から何を上申されても『そうせい』としか言わなかった。
薩長テロ政府成立後のまもない頃、元藩主は次のことを述べた。「そうしておかないと命が危険だった」。このように殿様の押さえが効かない藩の特性が長州テロを産んだゆえんである。何を上申されても『そうせい』としか言わなかった。
「毛利の 3 本の矢」の本当の意味は、一人でいると命の危険があるから、一人にならない ようにと、親から子への教訓だったのではないか。長州人は事実と正反対のことを力で押さえつけるため歴史がねじ曲げられてしまった。

暗殺、替え玉は戦国時代以来の忍法の初歩で、長州は「関ヶ原の戦い」から徳川に恨みを 持ち続けていた。そして、忍者を養成していた。俗に明治の功労者と言われている、伊藤 博文や山縣有朋等は足軽出身で忍者の位で言うと下忍であった。木戸孝允は上忍であった。岩倉具視は下級公家であった。公家とは、もともと秦王国の遺臣たる亡国の民をはじめとして、新羅、百済などの朝鮮人亡命者ばかりであった。

将軍家茂の暗殺 「維新正観」蜷川 新(著)
将軍家茂は大阪城中においてある日、毒物の盛られていた茶を飲み、にわかに苦しみ始め、突如として死去した。筆者の父、蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭であり、常に将軍家茂のそばにいて長州征伐に従軍した。それ故にこの極秘事項をよく知っていた。その当時それを筆者の母に伝え、母から秘話として筆者の幼児に話された事実である。将軍の遺骸は筆者の父、親賢に守られて、江戸城に帰った。記録によれば、「慶応 2 年 8 月 26 日、御尊骸御供被命、慶応 2 年 9 月 28 日、帰府支御役御免」とある。親賢は、それ以来公職を退いた。和宮は、遺骸に礼拝することを希望されたが、毒殺の痕跡は将軍の顔面に気味悪く現れて いたために、老中は、将軍のおさめてある棺の蓋を、開くことを許さなかった。この毒殺は固く秘せられた。毒殺されたのは慶応 2 年 7 月 20 日であったが、8 月 20 日にその死が発表された。従来の歴史には、ことごとく急病のために、死去したと書かれている。

孝明天皇暗殺の真相
孝明天皇暗殺については、永く在職した維新史料編纂係りの人は、皆よく知っていた。 植村 澄三郎氏は、同係の一人であった、この事件に関し筆者に語って言うに、「岩倉は、この暗殺を行った人であるが、はじめは失敗し、2 回目に成功した」と。由来世人は、案外 よくこの事件を知っているのである。岩倉はその妹を宮中に入れ、女官となし、その女官に命じて天皇を暗殺した。そして、その女官は薩摩人に連れられて、どこかで殺害されたと伝えられている。
孝明天皇は病気が治ったので、妾宅に行き、便所に隠れていた忍者(伊藤)に竹槍で刺殺されたというものである。これは『中山日記』の記録とも一致している。
土肥春耕は京都松原で医業を開いていた。閑院宮家の侍位であった。その春耕の書き残した日記の断片によると、慶応 2 年 12 月某日夜半急に起こされ、密閉された駕篭に乗せられて壮大な玄関口に導き入れられ、普通人の住居ではないと思われる暗い長い廊下を渡って座敷に通されると、40 にはまだ少し足りないと思われる総髪の男が脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや絶望状態になっていた。手当てのしようがなかった。
孝明天皇刺殺について、「皇室史の悲劇」(新潮:1951 年 10 月号)瀧川政次郎は次のように述べている。孝明天皇もまたわが皇室史上の悲劇の主人公である。慶応 2 年 12 月 25 日 の天皇の崩御をめぐって、疑惑は明治時代からかけられていた。
的確なことは言えないが、当時の情勢からいって、孝明天皇の暗殺ということは実際にあり得ることである。歯切れは悪いものの、事件の真相を的確に把握していた。

鹿島 昇は次のように言っている。
長州のならず者たちが、暗殺した天皇を「神聖不可侵である」とし、「万世多系」であった天皇家の歴史を血統的に「万世一系である」とする詭弁はならず者たちの、将来の歴史家による告発を免れようとする強固な意思のもとに学門の自由を完全に否定した。
そのためには暴力的な支配が必要となり、情報の独占と言論の弾圧が必要となった。
日本の歴史については、いくら明治政府が日本人をダマしても中国人や他のアジア人までダマせるわけはなかろう。殷鑑(戒めとすべき他人の失敗)遠からず、憲法によってウソ八百を強要した明治王朝は、国民すべてをウソつきとゴマすりにして滅亡の道を歩んだ。

益田 勝美「天皇史の一面」
天皇が国民統合の中心として意識され、国家権力によって利用されたのは、明治以後のことであって、幕末の諸藩では、天皇よりも、藩の殿様の方が尊敬されていた。
「天皇様をお作り申したのはわれわれだ」とは明治以前に生まれた長州の老人たちによく 聞かされたことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家は なかった。尊王派が考えていた天皇の国家の考えは、思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に、合わせて作られたものではなかった。彼らが求めて いる天皇と現実の天皇と、いくらか融和できるうちはよいとして、その矛盾が激化すると 天皇を(殺して)とりかえてしまうほかなくなる。
孝明天皇は暗殺されてしまった。もちろん仕組んだのは長州ならず者で天皇が倒幕の障害になったからである。今日では、このことはもう公然の秘密となっている。

明治天皇(大室寅之祐)
明治天皇の腹心だった田中光顕は明治になって天皇統治がはじめてできたことを指摘している。
田中光顕によれば、かねてから薩長は孝明天皇と睦仁を暗殺したうえ、山口県麻郷に住んでいた大室寅之祐を明治天皇にすり替える密約を交わしていた。それが薩長同盟の真の目的 であった。
薩長のならず者はこのことを厳重に秘匿すべく、倒幕という不要な戦争によって国民に恐怖を与えて注意をそらせ、さらに「天皇神聖」というコワモテの憲法を施行して、歴史学者に慶応維新実相の研究を禁止した。大逆事件を隠すために、引き続き侵略戦争を続けて 国民を弾圧することに決したから、その後、日本の国史学は御用学者だけになり、歴史学も奴隷史学にならざるおえなかったのである。
筆者(鹿島 昇)はかつて山口県柳井市に行き田布施町麻郷の地に大室家を訪れて、御当主の近祐氏からことの次第を詳細に説明された。
「明治天皇は私の祖父の兄で、16 歳のとき、維新直前に長州藩主に呼び出され、『まんじゅうを作りに行ってくる』といって出かけたが、京都に上って即位し、以後帰らなかった。
また明治 10 年(5 年ではないか)に軍艦で家の水場近くにやってきて、艦上から姿を見せ、『ソクサイかあ』と叫んだ」という。
大室寅之祐のちの明治天皇を生んだ山口県熊毛郡田布施町麻郷の麻里府という部落は、実は周辺の農家から「敬して遠ざける」という態度で腫れ物にふれるように扱われていた。
私の生まれた倉橋地区はその近くで、もともと大室一族を見張るための柳生忍者のかくれの里だったが、明治以後は一転して被差別部落とされて同じような扱いを受けた。
維新ののち土方久元という宮内大臣が何を思ったのか、明治天皇に対して、「エタたちを皆島流しにしましょう」と進言したとき、天皇が「それなら朕もその島に行く」と言ったことはよく知られている。

1970 年 1 月、前年末の 32 回衆議院選挙で落選したばかりの社会党の前代議士 山田 耻目氏宅を訪問したときのこと。(旧山口 2 区、岸、佐藤の地盤、33 回~36 回連続当選し引退)山田氏は「それはそうと前国会の会期中にこんなことがあった」と話し出した。
「私も出席していた先日の国会で某自民党議員から、『田布施の大室近祐氏と南朝天皇家のことを調べ直して、日本の歴史を明らかにしよう』という議員提案が提出されようとしたところ、その文書をみた岸 信介、佐藤 栄作が書類を握りつぶして、提案をもみ消した。私はこの目ではっきり見た」といって、そのいきさつを詳しく説明した。

長州黒手組:差別を仕事ととする秘密結社。
田布施町出身の岸、佐藤は長州黒手組のメンバーであると大室近祐氏が証言している。
独裁を維持し、明治天皇すりかえを秘匿してかいらい化するために作られた秘密組織である。奇兵隊内の同和系兵士たちを排除し、そして彼らの独裁と専制を維持するために、その他の関係者の口をもふさぐという作業を進めることとして、まず長州に残された忍者グループを動員して広く情報を集めた。
彼らは血判する代わりに、墨をぬった掌で手形を押して盟約したために、やがて黒手組と言われた。黒手組の統領は木戸であったが、伊藤、山県と続いた。
この秘密組織はまず奇兵隊のなかの不満分子を爆発させておいて鎮圧したほか、前原一誠、西郷隆盛など、かたくなな解放運動の同志たちを排除することに成功した。
今でも国会や政府内にいると思われる「長州黒手組」メンバーの権力者が改心して日本歴史の誤りを正し、「万世一系」などというウソの天皇家の歴史を書き改めて、作られた差別の政治の原点を明らかにして欲しい。と「裏切られた 3 人の天皇」の筆者、鹿島昇氏が述べています。

天皇家周辺の発言
山口 鋭之助(島根県出身、物理学者、学習院院長)
明治天皇は孝明天皇の子ではない。山口県で生まれて維新の時、京都御所に入った。と証言している。田中光顕も明治天皇は孝明天皇の子ではない。薩長連合には大室寅之祐を明治 天皇にすり替えるという密約があったと述べている。また、近衛文麿も自殺する少し前に言い残していた。
御所に大砲を撃ち込まれて気絶
本当の睦仁は女のように育てられたため、「禁門の変」の時、大砲の音にびっくりして気絶した。また、16 歳になっても遊戯が好きで、母親の中山 慶子が「余りデキのよい子ではない」と洩らした睦仁親王と鳥羽伏見の戦いで自らが騎馬して閲兵した、体も丈夫で 24 貫の大男、乗馬して兵卒に号令をかけ、大酒飲みで、相撲も強かったという明治天皇(大室 寅之祐)が同一人物であるとするのは不合理である。

明治から始まった悪習
国民に情報を与えないため、権力者(政治家、官僚)が失敗しても糾弾されない国は日本だけである。隠蔽する、捏造する、ウソを言う、デマ、不正…をして、責任を取らないで逃げ切る政党が権力を握っている、世界中にこんなひどい国はあるだろうか。
民主主義と偽っていること自体がおかしい、近隣の「将軍様の国」は民主主義とウソを言わないので、それ以下ではないかと思う。マスメディアの経営者が権力者と会食しているようでは国民に事実を報道できる訳がない。愚民政策が功をそうしている。

慶応維新
慶応維新は、慶応 3 年 10 月 14 日、徳川幕府の側から、進んでその権力を放棄して生じた事態である。天皇の意思と力によって生じた事態ではない。
尊王攘夷を叫ぶならず者たちは極めて陰険な行動を行った。彼らは、天皇、将軍、大老、 老中、学者たちを暗殺毒殺し、不法に外人を殺害し、外国艦船に砲撃をし、日本に多大の 損害を与えた。大規模強盗団を組織して、罪なき人々の財物を強奪し、天皇の詔勅や錦旗 を偽造して、世人を欺き、人心を惑わしめ、理由もなしに関東奥羽北海道の諸地方に一大 武力を使って、殺人、強姦、略奪の野蛮行為をした。それは、日本の歴史上、空前の醜悪な不法行為であった。薩長のならず者は卑劣な野心しかなかった。

木村銃太郎を隊長とする砲隊一小隊(二本松少年隊)
薩長のならず者が鳥羽伏見の戦いから函館まで、惨忍卑劣野蛮な行為をした中で最も悲劇的な事態が起きたのが二本松と会津であろう。
会津戦争の直前の戦争で、薩長の直接の目標でなかった二本松の戦い。二本松丹羽 10 万石。
戦闘員不足を背景に、会津の白虎隊より更に幼い数えで 12 歳から 17 歳の少年たちを青年武士木村銃太郎が率いた少年ばかりの部隊である。少年たちの嘆願によって「少年隊」が 組織された。武家の師弟は常日頃、武士とは戦場で死するものという教育としつけを受けている。出陣に当たって少年たち全員に 1 両 3 分の軍用金が支給された。子供が見たこともない大金である。この金は討ち死にしたときに、領民の誰かに埋葬してもらう時、埋葬料 として使ってもらうためである。こういう金を身にまとって出陣するのは死を覚悟した武士のたしなみである。最初の戦闘は 30 分ほどでケリがつく。少年たちは城下へ敗走する。 城下へ入ってきた薩長軍に対して、白刃戦を挑んだのである。幼い少年たちが数十人規模で藩の正規部隊として戦った例は世界中をみて会津白虎隊と二本松少年隊だけであるといわれている。1981 年に 62 名の少年が確認された。全国で 300 藩あって、総動員体制で薩長軍に抵抗し全藩玉砕壊滅したのは二本松藩ただ 1 藩である。 二本松は「盟約を守る」という、武家の本義を貫きとおした。
木村という青年は文武両道の男で、特に理数系に秀でていた。木村の家系が理数系に強い家系であった。父方の曽祖父は和算の権威渡辺東岳である。江戸期日本の和算とは、計量数学としては圧倒的に世界最高水準であった。木村銃太郎は理数系能力が極めて高かったため、藩命で 韮山代官所 = 江川砲兵塾へ留学していた。代官江川太郎左衛門英龍は幕末四傑の一人、川路 聖謨や鬼才 佐久間 象山、日露戦争の陸軍総司令官大山 巌などに西洋砲術を教えた我が国砲兵学の祖である。
この代官所は銃砲鋳造のための反射炉まで備えており、佐幕派・討幕派問わず各藩から留学生が集まっていた。砲術は数学、幾何学、力学、化学、火薬学をはじめとする最先端の数学科学知識が求められたのである。

会津藩と奥羽列藩の止戦工作
会津藩は松平 容保と家老連盟の嘆願書を朝廷と 22 藩へ送って和平の斡旋を懇請している。 有力諸藩はどこも応じなかった。米沢藩が斡旋を表明し、その後上杉藩は仙台藩と連携し、 会津藩の懇請を受け入れるよう働きかけをした。長州の極悪卑劣な世良修蔵が仙台へ入った。米沢藩は世良に対して、会津藩の降伏を受け入れるよう求めたが聞き入れなかった。
会津の討伐に意義を唱えるなら米沢藩も同罪であると言った。世良は仙台藩に会津攻めを 迫ったので、やむなく会津に出兵した。しかし、本気で戦う意思はなかった。両藩は米沢藩を仲介に止戦策を協議した。会津藩は降伏文書を作成し、奥羽列藩同盟は朝廷に対し、会津庄内の寛大な処分を求めたが朝廷を牛耳っていた薩摩・長州が受け入れるはずがなかった。
〔母成峠の戦い〕新撰組と大鳥圭介の幕府軍が石筵集落を薩長に利用させないために焼き払ったことが史実を曲げて伝えられている。
会津藩が籠城戦を戦い、鶴ヶ城を開城した後、会津の百姓たちが藩主親子の助命を嘆願した。提出先は長州藩、土佐藩、久留米藩、広島藩、熊本藩、鳥取藩、佐土原藩、若松民政局、西本願寺である。西本願寺は長州藩に極めて近く、長州藩に対して莫大な軍費を提供していた。
次月へ続く

【参考文献】
裏切られた 3 人の天皇 維新正観 日本のいちばん醜い日
数学者が見た二本松戦争 12 歳の戊辰戦争 明治維新という過ち
幕末維新消された歴史 長州の天皇征伐 日本人と天皇
長州伐なんたるものぞ 横田空域 さらば暴政自民党政権
日本に巣食う疫病神たちの正体 攘夷と憂国
改革者か独裁者か 小泉純一郎と日本の病理
天皇制を知るための近現代史入門
止めよう市民監視5 本の矢
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