2023 年2 月号vol .30
独立国になれない日本(敗戦後78年経過) 1 月号から続く
長岡の戦争
長岡に対する戦いは西園寺 公望を総督とし山県 有朋、黒田 清隆を参謀として行った攻略である。長岡藩の河井 継之助は長州薩摩にも東北諸藩いずれにも味方せず「中立すること」を主張し、会津藩に申し入れ、次いで長州薩摩に申し入れた。会津藩は了解したが西園寺らは聞き入れなかった。そして、長岡藩に対して不法な戦いを仕掛けてきた。長州薩摩は一時、大敗し、西園寺たちは醜く敗走した。しかし、河井は負傷し、兵員が少数であったために、ついに長岡城は開城した。長州薩摩はこの城を根こそぎ破壊して、その恨みをはらした。
会津領内での薩長の残虐非道な行為
会津藩と奥羽列藩の和平工作を受け付けなかった薩長は会津討伐へ軍を進めた。そこにたちはだかったのが二本松藩であった。盟約を守るという武士道で全員死を覚悟して、幼い子供たちまでが薩長軍と戦った。
〔白虎隊〕16~17歳の武家の男子で構成され、本来は予備部隊である。士中隊、寄合隊、足軽隊からなり 350名弱。精鋭の士中隊は 1番隊と 2番隊となっている。「白虎隊の悲劇は」出撃命令を受けた 42名の 2番隊が戸の口原で西軍に撃破され、敗走途中で白に上がった火の手を鶴ヶ城の落城と誤認した。19名が飯盛山で自害した。2番隊は全員が自害したのではなく、自害に失敗したものや、数名が敗走に遅れている。2番隊の生存者は 1番隊と合流し、約 290名の白虎隊員が籠城戦に加わっている。
〔朱雀隊〕会津藩の主力部隊18~35歳、約 1,200名〔青龍隊〕36~49歳、約 900名
〔玄武隊〕50歳以上 長州薩摩侵攻に対して防衛戦を展開した。籠城戦になっても、時々城外へ出ていって戦っていた。1868年 9月 22日鶴ヶ城開城。城下には戦死体が放置されていたが、長州薩摩はこの埋葬を禁止した。死体がひどい状態となった。みかねた庄屋がこれを埋葬したら、明治民政局に捕縛され、投獄された。長州薩摩の兵は戦死した藩士の衣服をはぎ取り、男根を切り取ってそれを死体の口にくわえさせた。少年たちの睾丸を抜くことをした。むしろや風呂桶に死体をぎゅうぎゅう詰めにしゴミのように穴に投げ入れた。これを賎民にやらせ、会津藩士に立ち合わせた。この穴を「罪人塚」と長州薩摩は呼んでいた。
「会津に処女なし」会津の女性はことごとく長州奇兵隊を中心とした西軍のならず者に強姦された。女と金品を求めて村々を荒らしまわった。ならず者たちは「山狩り」と称して村人や藩士の家族が避難している山々をめぐり、強盗、強姦、輪姦して時には殴り殺した。坂下、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約 100人に及ぶ娘・子どものほとんどが妊娠していた。医者は可能な限り堕胎した。生まれてきた赤子は長州ならず者のだれの子かわからない。村人たちは赤子を脇の穴に埋めた。「小梅塚」「小塚」と呼んだ。娘・子どもは涙を流しながら乳をしぼったという。この後、長州薩摩テロリストたちは最終目的地、函館へ討伐に行くのであるが、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争で彼らの通り道となったところは、残虐非道なことが行われた。
.参考.奇兵隊員は賎民出身者が多く各部落より選抜されて出てきたもので構成されていた。松下村塾出身の者たちに指導され、不動の信念を持って「大室天皇を奉戴して王政を復古し、部落解放の夢を実現する」ということを誓った。彼らは必死になって大室寅之祐を明治天皇にした。このことを知っていた、安政、万延、文久生まれの老人たちは明治天皇のことを奇兵隊天皇と呼んで、その出自と由来を明確に指摘した。この関係で有力者の出自をたどると、山口県、鹿児島県の朝鮮人集落から政府の重要ポストについている政治家が多い。山口県田布施と近隣の部落:明治天皇(大室寅之祐)、佐藤信寛(岸信介、佐藤栄作の曽祖父)木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、井上馨、難波八助、松岡洋右、鮎川義介(日産)久原房之助(日立)、岸信介、佐藤栄作、安倍源基、宮本顕治、安倍晋太郎、安倍晋三…がいる。ファーストリテイリング柳井正は宇部市出身で前掲の自民議員とは違い、権力と血脈を利用して利権あさりする小者とは比較にならない。その他、大手企業の役員が沢山いる。鹿児島県田布施:小泉純也(小泉純一郎の父、小泉又次郎の婿養子となり小泉姓となる又次郎も鹿児島出身)、東郷茂徳以上、記したように幕末から明治にかけて、長州・薩摩の極悪非道残虐な行為によって、日本国民はちじみあがってしまった。西南戦争で薩摩は脱落し、長州の天下となった。
西郷は西南戦争の前に「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り衣服をおごり、美妾を抱え、蓄財をはかり、維新の功業はとげられまじきなり。今となりては、母神の善戦もひとへに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し、戦死者に対し面目なし」と言った。西郷のこの告白は、岩倉、木戸、伊藤、大久保等を非難したことである。
長州明治国家
藩籍奉還:廃藩ではない。各藩はそれ以後も存在した。長州に味方した藩には領土を与え、長州に反対した藩には領土を奪い、あるいは減らした。新たな封建制度の始まりである。慶喜が朝廷に提出した「権力帰一の上奏」とは全く違っていた。慶喜は「広く会議をして天下の人々と協議すること」を主張した。それは封建制廃止を意味していた。小栗上野介は世界の大勢の方向に向けるために、封建制の廃止を唱えた。姫路藩主酒井は「藩を廃して、郡県となすべきこと」を 2回言ったが、長州政府は無視した。岩倉、木戸、伊藤の長州テロリストは天下をとることしか頭になく、将来展望は全くなかった。国民に対して専横極まる権力をふるっていた。政府のようしょくも長州とその一味で独占した。「公論政治」の芽はなくなり「祭政一致」の形式に戻ると称して、神祇官を最高の位置におき、天皇は神であるとし、神道の国教化が企てられた。この前後に「廃仏毀釈」という暴挙の政策を行った。1300年来にわたって「神仏習合」という形で神社の本殿に仏像を祀る、寺院の境内に神殿を構えていた。明治元年に薩長テロ政権が打ち出した仏教施設への無差別な、無分別な攻撃、破壊活動をである。2001年 3月にアフガニスタンのバーミヤンにある大仏が破壊された映像を思い出して下さい。日本全国で奈良朝以来のおびただしい数の寺院、仏像、仏具が破壊され、僧侶は厳しい弾圧を受けました。テロ政府は僧侶に対して『肉食妻帯勝手なるべし』とわざわざ命令しました。僧侶に戒律を犯させ、仏法の教えにいうところの「破戒」をさせようと企てました。僧侶は、ほとんど全員が神官に衣替えしたり、還俗することを強要された。
長州政府はさらに、華族、士族、平民と称する新しい身分制度を作った。新興財閥と姻戚関係を作り、利益や権力を独り占めにした。長州の連中は権力を保存し、それをさらに強化する目的のため、明治 4年 7月「廃藩置県」を実行した。封建制度よりさらに悪く、世界の大勢に逆行する専制制度を意味していた。徳川幕府時代に小規模な百姓一揆があったりしたが、明治初年から 10年までに大規模な騒動が全国で 300件近くあった。西郷の死後 1年もたたない明治 11年 5月に大久保は馬車で登庁するところを 6人の壮士に暗殺された。その首謀の石川県士族、島田一郎たちは直ちに宮内省に自首した。斬るべきものとして、大久保、木戸、岩倉の名をあげた、許すべからずものとして、大隈、伊藤、川路利良、三条などの名をあげた。島田は彼らが人民を軽蔑し、社会を乱し、専横を極めたのを怒り、許せなかった。特権階級を得た長州や公家などは江戸から東京と呼び名が変わったところにきて、広大な邸宅を占領し、まるで侵入軍が外国征服の専横を欲しいままにしたごとく、傍若無人の事態を示していた。愛国も、神道も、慈悲も、恥をしることも、彼らには全くなかった。国民は新占領者にコビをうって、かろうじて身の安全を守り、いまだかつて経験したことのない物価の高騰に苦しめられた。300年来の江戸文化は破壊され、女子は長州の占領者の妾とされてもてあそばれた。維新とは、破壊であり、日本を混乱に落とし入れただけである。
長州政府によって歴史をねじ曲げられて、幕末期における政策が稚拙で維新によって近代化されたウソを教えこまれてしまった。事実は全くその逆で、長州政府は権力を握ることしか頭になく、日本を良くする政策立案能力は全くなかった。徳川政権が法制度、統治機構、外交政策等の面でよく工夫されていた。150余年前の幕末動乱期から明治にかけて、史実をねじ曲げたつくり話を「歴史」と信じこまされ、また、薩長土肥の下級武士が明治の立役者と言われ、中でも、長州が権力者となったため、極悪非道な連中が「功労者」と呼ばれている。これを可能にしたのは、「国民を恐怖でちじみあがらせた」「情報を独占して国民に何も知らせない」「国民にウソを信じこませる」これが明治から 150年以上経過しても引き継がれている。日本人が教えられてきた歴史は「長州・薩摩のならず者が書いた歴史」であるということを肝に銘じることです。
人民が情報を持たず、情報を入手する手段を持たないような人民の政府は、喜劇への序章か悲劇への序章かあるいはおそらく双方への序章にしかすぎない。知識をもつ者が無知な者を永久に支配する ジェームス・マディソン:アメリカ合衆国憲法の父
愚か者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
令和の日本で山積している問題は今の時代に急に起きたわけでなく、その起源は幕末から明治にかけての俗に言う“明治維新”が事の端緒である。それは長州明治政府に史実が曲げられてしまった事である。現在の歴史研究では、初代神武天皇から 9代開化天皇までは実在が確認されていない「神話上の存在」となっている。今上天皇(徳仁)までの 126代の天皇の中には実在が疑問視されている天皇が何人もいる。空白を埋めるために何代かの天皇が創作された。また 96代後醍醐天皇(1318年~1339年)の時代、「宮方:南朝(吉野)」と「武家:北朝(京)」の二つの朝廷が出現し、「二人の天皇」が存在した。
『長州の天応征伐』から引用すると、長州が捏造した明治維新による「大日本帝国」はニセ「日本国」だった。本音は反日本、嫌日本だった。そのくせ国民には情報管理を厳重に管理して秘密真相は一切漏らさず封印し、無内容の忠君愛国の扇動をし続けてきた。「国家神道」なるものも、まさに方便、国民をたぶらかすものであった。不敬罪という脅迫装置をい作り一切の疑義を封じ、国民を奴隷のように貶めた。「国家神道」は天皇を絶対至上の神とする擬似一神教のお粗末なものであった。ニセモノ神道「国家神道」で重武装され担がれた明治天皇の正体は大室寅之祐(山口県田布施出身)。
「白村江の戦い」(663年)の後、日本国ができる以前は畿内に秦王国グループがあり、九州に倭国があった。戦後、新羅王族を天皇として両国を併せて日本国と称した。秦王国は別名を「日の本」といった。そもそも日本人は日本に住んでいるうちに過去の満洲や朝鮮におけル歴史を捨てた。倭人が外来者であったとなると、伊藤憲法が定めた現人神たる天皇も外来者神道の神々も外来神隣、近隣諸民族を蛮民とみなすことに矛盾がでるので、史実を曲げた。剛直の賢人 小栗上野介
小栗は正しいと信ずることを直言し、いかなる不正も断固として許さなかった。この剛直な性格は、多くの敵をつくりまた多くの味方をつくった。意見が取り入れられなければ、淡白にその職を去った。大老井伊直弼に見込まれ 34歳にして遣米使節の目付となり、1860年1月から 9ヶ月間かけて世界一周をした。幕府の要職を歴任した 8年間に、小栗は内政、外交、軍事、財政等の全般にわたって様々な改革を計画し断行した。対馬事件:1861年 5月、小栗は対馬を占領しようとしたロシア艦長ビリレフと折衝するため、対馬に行き、死を決して談判にあたった。小栗は少年のころから、その鋭峰をあらわしていた。安積良斎の高弟に漢学を学び、剣は藤川整斎の門に入り、皆伝となった。砲術を田村主計に学び、蘭学も学んだ。少年のころから識見は時流を抜いていた。軍艦奉行就任後、米国から軍艦を購入し、横須賀にフランス人技師を招いて、造船所と鐵工所を創設し、上州小坂村鉄鉱の採掘を計画し、日本における洋式海軍の基礎をつくった。
幕府の軍制を改革し、フランス陸軍の制度を導入し、洋式陸軍の基礎もつくった。小栗は世界の大勢を察知し、実地に世界一周をしてきた。封建は時代に合わない制度であることを充分に知っていた。封建制を廃止し郡県制とすることを主張していた。また開国論者であった。天皇崇拝というものは全くなかった。小栗は難局に際しても不可能の言葉を言ったことはなく、屈せず、たゆまず、身たおるるまで努力することを実践した人である。
これは全て日本国と国民のためであった。小栗は米国より帰った後、江戸の自邸に、江戸最初で唯一の木造洋館を建てた。薩長軍が江戸に入った後、土方久元が占領した。
1868年 2月慶喜が幸福を決意した。小栗は江戸にいる必要はないと思い上州権田村に行くにあたり、彼に理財の方法を教えられ、三井財閥を興した、三野村利左衛門が小栗に千両箱を呈上し「米国に一時渡らるべし」とすすめた。小栗はそれを辞退し「好意は謝するけれども、思うところありて、しばらく上野国に引き上げる。もしも後年、婦女子が困厄(苦しむ)する折りがあったならば、その節は、何分よろしく頼む」と答えた。そして権田村の東善寺に住んだ。洋書を読み、米国より持ち帰った機械を研究し、付近の師弟を教育し、平穏に勤勉に生活していた。
薩長の岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、板垣退助、伊地知正治らは小栗は「7000人を撃退する兵器を持っている」「大砲を持っている」等のデマを流した。高崎藩、安中藩、小幡藩の 3藩は薩長の命令を拒否できずに、800の兵を率いて、東善寺に小栗に
面談に行った。そして現実は薩長ならず者の言っていることはウソであることがすぐに分かった。小栗は薩長に反抗しないことを伝えた、3藩は直ちに引き上げた。しかし、薩長のならず者は 3藩の公明な処置に対し激怒し、「薩長は 3藩を討伐する」と威嚇され、ちじみ上がった。再び、薩長ならず者の原保太郎(22歳、人斬り)、豊永貫一郎(16歳、人斬り)は 3藩を率いて、権田村に侵入し小栗を捕まえた。小栗と家臣は全く抵抗しなかった。
翌日肌寒い早朝の河原で家臣が先に斬首された。小栗は泰然自若で徳川武士の本質であった。
豊永の命令で中沢という者が、後ろ手に縛られているところに両手の下から木を当て上体を前方に曲げさせようとした時、小栗は「無礼をいたすな」と大喝し、自ら悠然として
その体を前に倒し、首をさしのべ「速やかに斬れ」と命じた。原保太郎は小栗の気迫に
打たれ、一刀を失敗し、2刀でかろうじて首を切り落とした。不世出の偉人小栗上野介は
冷酷無知な薩長ならず者の手によって 42歳(1868年)で命を絶たれた。
薩長ならず者は「この者朝廷に対し、反逆を企て…」と立札を立ててさらし首にした。
悪策士の大音龍太郎という者が「罪状申し渡しの届出」を提出した。殺人暴虐以外に能がない者でも、「維新の偉業」の「功労者」とでっち上げされる。大音は群馬県の初代知事となり、過酷な悪政を行い、逃亡した。原は滋賀県知事となり、無能を暴露し、貴族院議員となり、赤十字常議員となり、89歳の生涯を気楽におくった。
維新の功労者といわれるものの正体は全員こんなものである。
歴史から消された先駆者の偉業
薩長政府は幕府の要人を抹殺し、徳川幕府が築きあげたものを、自分たちの功績と宣伝してきた。小栗上野介の偉業はすでに記したが、永井尚志〔初代外国奉行〕は小栗に先んじて国防に取組み、長崎に製鉄所を建設し、造船所に発展し、後の三菱の基盤となった。西洋解剖学を最初に翻訳した日本人は前野良沢と杉田玄白の「解体新書」と言われているが実はこれより 92年前の 1682年に長崎のオランダ語通訳の本木良意が最初に翻訳した人である。その孫、本木良永はピタゴラス、コペルニクス、ガリレオ等を学び日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介した天文学者であった。良永の子、本木庄左衛門は英語とフランス語を極め、日本最初の英和辞典と仏和辞典を編纂した学者であった。庄左衛門の孫、本木昌造は幕末にロシア使節が長崎へ来航すると、彼らから洋式造船技術を体得し、近代機械の製造技術、航海術をも体得し、造船所の技術者を育てた。また、活版印刷の創始者でもある。本木活字に倣って新たな活字技術を生み出した秀英舎、これは徳川家の幕臣として、彰義隊の隊士となって最後まで長州政府に抵抗した佐久間貞一を中心に創業した会社である。後の大日本印刷。本木の弟子の平野富治は築地活版所を創設した。これにより、東京の下町には印刷所とメッキ工場が林立した。平野はその後、隅田川河口の石川島で造船所を育てあげた。後の石川島播磨重工業の基礎を築いた。森山栄之助(長崎の通訳者)、1843年に 24歳で長崎から浦賀奉行所に派遣され、それから3年後にアメリカ東インド艦隊が浦賀に初来航し(ペリー来航の 7年前)アメリカの通商要求を拒否した。ペリー再来航した時は幕府代表の通訳として、日米和親条約を締結した。長州政府を嫌ってそこに仕えようとしなかった。栗本丹州は日本に棲息する魚介虫類の研究と図説書の先駆者。天才博物者の南方熊楠の約 100年前の人である。ドイツのシーボルトが注目した人物である。
栗本鋤雲は小栗上野介と組んで横須賀製鉄所を創立し、日本の近代的造船業の礎を築いた。小栗が薩長軍によって斬殺されると栗本鋤雲は「小栗様を殺すような愚かな政府に仕えることはできない」と生涯にわたって長州無能政府を拒否し続けた。芸術においても江戸時代は素晴らしいものがあった。小栗上野介と栗本鋤雲が製鉄所建設のためフランス技術者と親交を深めていたため、ナポレオン三世から誘いを受け、1867年 4月1日から 11月 3日までパリで開かれた万国博覧会に初めて参加した。そこに出品したものは浮世絵、象牙細工、磁器等でヨーロッパの人々を驚かすほど素晴らしいものであった。浮世絵は絵師を活かす彫り師と刷り師が一体となってできるものである。ご覧のように徳川幕府に仕えていた賢人たちの功績は素晴らしいものばかりである。しかし長州政府は幕府の要人を抹殺し、徳川幕府をののしり、幕府が築いたものを横取りし、文明開化をしたのは自分たちの功績であるかのように国民にウソを言い続けてきた。明治 =近代化というのは大きな間違いである。明治に入る 15年前にペリーが来航し、安政5ヵ国条約(1858年、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス)を締結し、欧米文明を導入した。造船、機械化、語学、藩政改革、洋式溶鉱炉、株式会社制度、西洋医学等は幕府の賢人たちによって近代化の基礎が築かれた。
次月へ続く
【参考文献】
裏切られた 3人の天皇 維新正観 日本のいちばん醜い日
数学者が見た二本松戦争 12歳の戊辰戦争 明治維新という過ち
幕末維新消された歴史 長州の天皇征伐 日本人と天皇
長州伐なんたるものぞ 横田空域 さらば暴政自民党政権
日本に巣食う疫病神たちの正体 攘夷と憂国 止めよう市民監視 5本の矢
改革者か独裁者か小泉純一郎と日本の病理 天皇制を知るための近現代史入門
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その他多数の文献
