2023 年3 月号vol .31
独立国になれない日本(敗戦後78年経過) 先月号から続く
幕府の外交と明治以降の外交
安政条約は適法合理の条約で、反幕派の非難は無知無能の暴露である。この条約の批准書交換のために米国に派遣された小栗上野介たちの使節は、全米国民から「品格知慮収容はいずれの代に比するも遜色なし」フォスター著(米国の対東外交)と嘆賞させている。小栗上野介は対馬を占領しようとしたロシア艦長ビリレフと談判して、対馬からロシアを追い払った。
松平石見守はロシアに行く途中欧州各地で買った外国製の地図が北緯 50 度を国境としていた。松平は巧妙かつ強硬に主張し、イグナチーフを屈服させ、樺太境界をロシア側が 48 度説を主張するに対し 50 度説を主張し、それを貫徹した。日露両国から境界委員を現地に 派遣し、実地立会いの上取り決めることを約束した。しかし、日本国内では薩長公卿ら攘夷論者の陰謀により、紛糾が絶えず、幕府はロシアとの約束を実行することができなかった。ロシアは樺太に堡塁を築き、樺太をロシア領であると主張した。幕府は 50 度を強硬に主張し、これまで通り両国の共有ということになった。
小笠原が日本領となったのは 1675 年、長州政府は 1875 年(明治 8)に日本領になったと している。水野筑後守は小笠原開拓の命を受けると、関係国公使と交渉し、現地に渡り英米移民に日本領であることを伝え、日本の命令に従うことを命じた。島を去るものに対しては土地家屋を時価で買い上げることを定めた。英米人は幕府を信頼し、日本の法律に従うことを承諾した。
徳川幕府の要人は、各国公使に接し、日本の威厳と利益を守り、外国公使から侮辱を受けた ことがない。しかし、長州政府は国際法を無視し、拙劣幼稚な外交を行い日本にとって不利益な条約を結び、イギリス公使パークスに軽蔑され翻弄された。
長州明治政府は樺太を放棄する
ロシアに樺太を譲り、その代償としてロシア領内に日本兵が通過することを考えた結果、樺太をロシアに譲ることをロシア公使に承諾した。明治 7(1874)年、長州政府は樺太を放棄し、千島と交換する悪方策を決定した。1875 年樺太千島交換条約を締結した。
長州明治政府の拙劣な外交の結果、多年にわたる幕府の努力は泡沫と化し、日本の被った損出は甚大であった。
幕末から 156 年を経ても長州政府を原点とする自民党の偏向教育
明治維新によって、欧米列強の植民地化が防げて、近代化ができた。私が受けた教育と今も全く変わっていない。長州政府は自身の罪悪の隠蔽のために功労者を捏造し、行跡を歪曲 して伝承させてきた。長州が作ったウソだらけの歴史がまかり通っている日本、こんな国は世界中を見まわしても日本だけです。政府と御用学者は徳川時代の偉業や功績を抹殺し、 日本国と国民に対して不利益と不幸をもたらしているだけである。自民党の教育方針は国民から思考力や表現力を奪い、あきめくらにして自分たちに従順な国民にしていくことが最大の目的である。= 愚民政策どこの政党を支持しようと自由であるが、表面だけを見るのではなく、核心をみないとだめである。
官僚たちはそれなりの大学を出ているにも関わらず、「建前だけ日本を良くしたい」実際の行動は真逆のことをしている。国民を苦しめる悪法を数えきれないほど作っている。
徳川時代の政府要人たちは国家・国民の利益を願い令和の今よりよっぽど考慮した行政をな行っていた。例えるならば横綱:徳川と序の口:自民、公明と官僚ほどの大差がついている。
日本人はウソの歴史から脱却すべきである。真実の幕末からの歴史を学ぶことで民主主義国にすることができます。
長州政府 = 天皇権力主義の恐怖独裁政治
長州ならず者政府は無能・無知で展望が無い連中だが、悪知恵だけは働く。国民も初めの うちはならず者政府に反発を感じていたが、数多くの弾圧法により「命あってのものだね」という気持ちにさせてモノを言わせさせないようにした。
恐怖、洗脳、国民の慣れ、プロパガンダ(特定の考えを植え込ませる宣伝)によって、国民に真実を見極める能力をなくさせ、思考停止にしてしまった。これが 156 年を経過してもその流れを汲む自民党に引き継がれている。そして、秘密保護法、盗聴法、マイナンバー、監視カメラ、共謀罪等で国民の一元管理ができ監視国家となってしまった。さらに権力を しばる憲法を壊そうとしている。ファシズム国家にまっしぐらに進んでいる。
藩籍奉還 1869 年 1 月
薩長に協力した藩には領土を与え、反対した藩には領土を奪った。
藩が外国商から借金することを禁ずる 1870 年藩による貿易が薩長政府によって妨害され、薩長と結託した政商が貿易を牛じった。この時からデキレースが始まって、156 年経過した、今も続いている。
廃藩置県 1871 年
木戸孝允、井上馨、山県有朋、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、西郷従道の 7 人が密会を重ねてきた秘密裏の政策であった。藩を廃止して県になることを言われたが、藩主たちは 一定の収入が保証され、また、藩札と外国商の借金は政府が肩代わりするというので、抵抗はなかった。大名が存在しなくなって一番の被害を受けたのは大手両替商であった。
薩摩藩は 1827 年に 533 万両の借金があった。藩の年間収入は 14 万両しかないが、利子だけで年収の 4~5 倍になると言われていた。
政府が返済しなければならない借金は帳消しにした借金とは別に、藩札と外国商に対する外債を合わせると 1 億円近い金額であった。当時の政府の歳入は明治 3~4 年が 2200 万円明治 4~5 年が 5000 万円であるから、政府にも到底返済できるめどはなかった。
薩長政府は莫大な徴税を行い、国民から集めた血税で支払ったのである。伊藤や井上たちが長州藩からもらったイギリス渡航費用を使い込んで女郎屋に通った金まで、また、明治の 功労者と呼ばれる連中が作った途方もない借金を国民が返済しなければならなかった。
長州政府が作った弾圧法
徳川幕府時代にも百姓一揆はあった。しかし、幕府に対する不平ではなく、地方の大名等に対する小さな不平であった。明治になった 1868 年から 1877 年の 10 年間だけで天皇政府に対する大きな不平が大規模な騒動となった。その数は 300 件にのぼった。また、明治政府の要人たちは同志から多くの反発をかい、武力による仲間争いを 10 年間していた。横井小楠の暗殺、雲井龍雄の乱、山口藩の士卒の反乱、広沢参議の暗殺、前原一誠の山口の乱、三重県及び茨城県に生じた土民の擾乱、西南戦争などの騒動が発生した。
長州テロ(伊藤たち)は天皇を暗殺したことがバレないように身代わりとした大室寅之祐を「神聖不可侵」とし、「万世多系」であった天皇家の歴史を「万世一系」とする詭弁を言った。真実を言う者に対しては不敬罪という法律を作り言わせないようにした。
出版条例 1869 年:出版物に対しての検閲。政府批判の書物の出版販売の禁止⇨言論統制
讒謗律 1875 年:政府批判を言わせないようにする⇨言論統制
新聞紙条例 1875 年:新聞・雑誌による政府批判を禁止した
集会条例 1880 年:集会・結社の自由を規制
保安条例 1887 年:民主主義運動の弾圧
長州ならず者政府は日本国民に対して、思想・信条の自由、集会・結社の自由を奪い、言論統制をし民主主義を完全否定した。その目的は自分たちの悪行の数々を表に出ないように するためである。
⑴軍人勅諭 1882(明治 15)年 1 月 4 日 山県有朋
軍隊を天皇の軍隊とした。「天皇はなんじら軍人の大元帥なるぞ」という。明治以前の歴史に存在しなかった。人間を犬、畜生以下の扱いの軍国主義。
⑵大日本帝国憲法 1889 年(明治 22)年 2 月 11 日 伊藤博文
国民の権利、自由は全くなく、国民に服従を要求した者である。また、権力の分立がなかった。天皇に全権力が集中する専制国家。天皇を利用した無責任政治がここから始まった。
令和の時代に長州テロ集団の DNA を引き継いだ自民党によって、憲法が改悪されようとしている。国民の権利はなくなり、義務が強化される。諸外国の人たちと比較すると日本国民は憲法をわかっていません。憲法とは権力者が暴走しないようにするためのたがである。 樽のたがが外れるとどうなるかは説明しなくともわかると思います。
自民党、公明党、維新は憲法を壊して、このたがを外そうとしています。たがを外したら権力を暴走させるだけです。絶対にさせてはいけません。暗黒社会になることを許してはいけません。自民党壊憲草案は世界中から何世紀前に逆戻りするものだという、驚きの 声が上がっている。
⑶教育勅語 1890(明治 23)年 10 月 30 日 伊藤博文
「親孝行、夫婦仲良くということは悪くはない」というのは、愚か者か、人を騙そうとしている者の発言である。前段はオブラートである。後段が核心で「一旦緩急あれば義勇公に奉じもって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」⇒「戦争などの時は天皇のために命を投げ出せ」という軍国主義のかなめであった。
日本の歴史で君権本位の驕慢な命令は出されたことが無い。名君は国民に向かって、服従を強要すべきものではない。明治時代のような偏向教育はなかった。1948 年 6 月 19 日に廃止された。しかし、2006 年 12 月 15 日、長州テロ集団の DNA を引き継いだ安倍自民党によって、大事な「教育基本法」が改悪されてしまった。その方向は「古い価値への回帰」「時代錯誤的価値観」の強調で「偏狭な国家と文化への強調」「前近代的人権教育思想への回帰」である。憲法改悪とまるっきり同じである。「21 世紀を切り拓く」ことを目指しているというが真逆である。
薩長明治政府の閨閥づくり
明治政府は薩長の足軽以下の無知無能集団が政府の要職についた。彼らは鉄砲で民衆の怒りを押さえつけ、徳川幕府の外国貿易をそっくりいただいた。軍資金を求めて、港に栄える 産業を自分たちで支配することを思い、資本家を取り込むために、政略結婚によって姻戚 関係を結んだ。
薩摩の松方正義はその典型である。明治 41 年の全国の長者番付で 8 番となった。松方には妾が何人もいて、天皇に「子供が何人いるのか」と聞かれても自分でも分からず「調べて から後日お伝えします」と答えた。総理大臣の子供の数が犬のように多く、30 人ちかくいたようである。その子供の結婚相手に名だたる一族が揃っていた。川崎重工業、東京地下鉄、三井、三菱、…である。
三井の番頭の中上川彦次郎は福沢諭吉の甥である。紙数の関係で省略しますが、松方閨閥、福沢閨閥、三菱閨閥が一体となる。松方は蔵相時代に自身と閨閥関係者に官業を安値で払い下げをした。
井上馨(長州)…搾取、背任、横領の犯罪者。貨幣鋳造でぼろ儲けをした。尾去沢銅山汚職…秋田県尾去沢銅山に目をつけ、銅山を強奪して、同郷の豪商の岡田平蔵に売ってぼろ儲けをした。足軽以下の井上は西郷隆盛から「三井の番頭」と呼ばれた。「三井本家といえども井上馨の許可なしには何も決められなかった」その訳は、江戸は武家屋敷が 6 割を占めていた。薩長政府は大名 281 家の上屋敷・中屋敷・下屋敷と徳川家 6000 家の旗本屋敷を没収した。幕府を裏切って薩長に従った者には与えたが、それ以外は土地の分捕り合戦をし、 皇族や華族、薩長の悪策士が住み召使いを抱える殿様暮らしを始めた。三井は戊辰戦争で 軍資金を調達したため、日本橋兜町の土地をもらい、明治 4 年三井ハウスを建設した。そこに井上馨がたむろしていた。
三井物産設立の経緯は、長州の伊藤博文(井上の甥が養子に入る)が三池炭鉱を江戸時代の経営者から強奪して明治政府のものとした。囚人を坑内業務に使い、井上の仲間の益田孝に石炭販売を委任するためであった。儲けるとなれば、長州の悪策士及び三井はけじめが なかった。
山県有朋(長州)…「山城屋事件」で生糸相場で大穴を開けた山城和助(長州の政商)に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付いた。汚職まみれの政治史の先鞭をつけた。
このように足軽以下の出身者が権力にものをいわせて、搾取、背任、横領、ワイロという犯罪行為によって、桁外れの財産を貯め込んだのである。
華族制度
伊藤博文は ①明治天皇すり替え隠蔽 ②伊藤を含めて、俗にいう「明治の功労者」と言われる連中は足軽以下の出身のため、爵位が欲しかった。死後でも家族に継承できるようにした。仲間内のお手盛りだったため、新たな身分制度に反発し、不兵士族の乱を撃発させ民衆は自由民権運動に立ち上がり、農民一揆が全国的に大規模な騒動として明治 10 年までの期間で 300 件を数えた。
薩長公卿は東京に来て、広大な邸宅を占領し、あたかも侵入軍のように傍若無尽の振る舞いをした。愛国も、人道も、慈悲も、何もなかった。国民は薩長公卿のならず者に媚を売り かろうじて、身を守った。かつて経験したことない物価の高騰に苦しめられ、300 年来の 江戸文化は破壊され、美しき女子はならず者たちの妾とされてもてあそばれた。
維新の名は美しいが、その実態は破壊であり、混濁醜悪以外の何ものでもなかった。
この時以来、日本では 150 年悪政が続いている。
薩長の植民地主義
1873 年(明治 6)年 1 月、薩長政府がアジア侵略するため、山県有朋によって徴兵制が発令された。
1881(明治 14)年、国民の監視と弾圧するため憲兵が設置された。
第一の史実 1857 年薩摩藩主の島津斉彬は台湾を占領しようとした。⇒征台の役(1874 年)によって岩崎弥太郎が莫大な軍事利益を得る。
琉球資料によると1609 年島津家久は琉球を武力併合した。これは薩摩藩の単独行動であった。薩摩藩は 琉球民に対して過酷な奴隷労働をさせた。幕末には奄美大島・徳之島・喜界島で強制労働によってサトウキビ栽培で砂糖を買い占め、巨富を得た。
征台の役の目的は琉球を日本が領有することで行われた。辺野古の基地建設など、現在まで続く沖縄県民の苦悩の発端は明治にあった。 琉球王国の変遷は次の通りである。 1872(明治 5)年 9 月 14 日 日本と清国の両方に属していた琉球を日本が一方的に日本の領土にしてしまった。
1874(明治 7)年 5 月 22 日 日本が台湾に出兵。琉球民が台湾で殺されたことを言いがかりをつけて、清国に琉球が日本領であることを認めさせた。
1879(明治 12)年 3 月 11 日 琉球処分。明治政府は琉球へ軍隊を送り込み、武力で威嚇し、日本に編入した。
そして現在、沖縄辺野古で、日本政府が機動隊、海上保安庁の暴力を導入して基地建設を進めている。これに対して、沖縄県民から「第二の琉球処分だ」と激しい怒りの声があがっている。
第二の史実 現在の朝鮮半島に韓国と朝鮮と二つの呼び名があるのは次の通り
1401 年 李王朝は中国・明朝の皇帝によって「朝鮮」と定められた。豊臣秀吉の朝鮮出兵という戦乱時代を経て、徳川 260 年間は平穏であった。
1897 年 日清戦争(1894~1895)の余波を受けて、大韓帝国と改称された。
1910 年 日本が韓国を植民地にして、再び朝鮮と解消された。
1948 年 米ソ対立のため南北朝鮮が分断され、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国となった。
明治政府の征韓論は幕末の尊王攘夷思想の平田篤胤と吉田松陰たちが唱えた朝鮮進出論に 原因があった。『古事記』『日本書紀』の架空の伝説をもとに、古代日本は朝鮮を支配して いたというデタラメの妄想を主張した。これを実行したのが、維新の功労者と言われる薩長のテロ集団である。
アジア侵略の総本山【松下村塾 = 教育する場ではなく、テロ集団の談笑する場】を 2015 年に『明治産業革命遺産』に組み込んだのが安倍晋三である。産業革命とかけ離れているものがなぜ選ばれたか全く理解できない。また、萩反射炉は失敗に終わったにもかかわらず登録された。長州が早くから産業・文明に寄与したような幻想を与えている。伊豆韮山反射炉、岩手県釜石の高炉、佐賀の三重津海軍所などは明治以前の徳川幕府時代の遺産である。
安倍晋三に電波ジャックされた NHK では籾井会長のテコ入れにもかかわらず大河ドラマ
「花燃ゆ」は低視聴率に終わった。
木戸孝允の陰謀
徳川時代対馬藩は朝鮮と親善外交をしていた。1607 年徳川家康は朝鮮との国交を回復して対馬藩が外交窓口となり、釜山に対馬屋敷を持ち、ここが徳川時代の唯一の在外公館であった。明治元年 12 月 11 日に明治政府は朝鮮に開国を求めるため、対馬藩に国書を持たせ出発させた。木戸孝允は対馬藩が出発 3 日後、明治元年 12 月 14 日に岩倉具視に進言し「朝鮮に 鎖国の無礼をわびさせ、謝罪しないならただちに兵を送って朝鮮を攻撃しよう」と言いがかりをつけて侵略しろとけしかけた。外交使節が朝鮮に到着する前から武力攻撃の陰謀を企んでいた。明治 8 年朝鮮侵略を実行した。
日清戦争 1894(明治 27)年~1895(明治 28)年
清国商人を朝鮮から追い出して利益を確保することが目的であった。福沢諭吉は「文明と 野蛮の戦争であり、文明国日本にとって、清との戦いは正義の戦いである」「日本人は重税その他あらゆる犠牲に耐えて、軍備拡張に全力をあげ、清国との戦争に備えるべきである」と主張し、山県らとともに軍国主義を煽った。1895 年 1 月 14 日戦争のどさくさにまぎれて「尖閣諸島」を日本領土に編入した。台湾を割譲し、沖縄の日本領有権を認めさせた。 日本軍人の膨大な死者を犠牲にし、また、1 年分の国家予算を戦争に使った。これは国民 が厳しい労働の末に稼いで納めた税金である。軍国主義者(財閥)のフトコロにそっくり 入った。日本は朝鮮に対し経済侵略を行い、朝鮮商人と清国商人が一掃された。米、大豆、金を求めて荒らしまわった。当然のこととして激しい反日抵抗運動が続いた。
閔妃暗殺事件
朝鮮とロシアが手を結んで日本の勢力を排除しようとする動きがあった。そこで 1895 年10 月に長州出身の公使三浦悟楼と熊本出身の安達謙蔵が閔妃を暗殺した。日本は天皇制の国ではなかったから、薩長のならず者たちは「尊王」と叫びながら、御所に大砲をぶち込みまた、徳川将軍家茂を暗殺したり、孝明天皇暗殺そしてその子睦仁を暗殺して闇に葬って しまった。しかし、自国の王妃を殺されて黙っている国民がいるはずがない。
薩長のならず者たちは国内、国外でもやりたい放題の悪行を行い、21 世紀においても悪行が続いている。
大事なことを報道しないマスメディア
総務省は放送法に基づく「政治的公平」について「一つの番組でなく、放送事業者の番組全体をみて判断する」との見解を示していた。2015 年の安倍政権下で高市総務相は「一つ一つの番組をみて全体を判断するのは当然」と解釈を変えた。これによってマスメディアは萎縮してしまった。国会で大事なことを議論しているのにメディアは自民党に忖度して、 国民に情報を与えないで、そらすために、どうでもいい WBC を毎日、長時間に渡って放送している。これでは、国民はバカになり、愚民政策成功 !
次月へ続く
